Vol.26 一年以内に死ぬと誰が決めた

2016/02/15

 宗道臣は、10代半ばで母と妹たち、それに祖父まで失います。天涯の孤児となった宗道臣は、祖父の縁で、右翼の大物・頭山満の世話になり、その口ききで満州に渡り特務機関に身を置きます。1928(昭和3)年1月、宗道臣17歳のときでした。

 それから三年近く、機関の協力者であり少林武術の師ともなった陳良老師らとともに、軍用地誌作成などに満州とモンゴルの山野を駆け巡っていました。しかし、この垢にまみれ、シラミを湧かしながらのあまりにも地味な日々は、華やかな馬賊を夢見て大陸に渡った20歳前の若者には過酷すぎたようでした。暗い地中を這いずるモグラより、軽やかに空を飛ぶトンボになりたい。

 たまたま内モンゴルの旅の途次、チフスにかかり寝込んだのを機に帰国。航空隊を志願して首尾よく合格。岐阜県の各務原にあった飛行第一連隊に入隊します。ところが翌年4月、訓練中に雨に打たれてずぶ濡れになったのがもとになり、ひどい発熱で倒れてしまい、そのまま衛戍(えいじゅ)病院(陸軍病院)に入院させられてしまいます。そして6か月後……。「病により兵役を免ず。明朝食後退役すべし」という命令をもらいます。心臓弁膜症の診断でした。その夜、上等看護長(士官相当)が宗道臣を呼び、兵役免除で病院を出た者たちの名簿を見せながら、「これを見ると分かるだろう。陸軍病院で兵役免除になった者のうち、7割は一年以内に死亡している。あとの3割近くも三年以内に死んでいるから、貴様も注意しろ。運よく三年もったら少しは生き延びられるかもしれんからな」。

 病院を追い出されたものの、さしあたり仕事もなければ金もなく、結局元の古巣へ戻るほかありませんでした。宗道臣、このとき弱冠20歳。懐かしの陳良老師との再会がせめてもの慰めであったでしょう。1931(昭和6)年10月の満州は、いわゆる満州事変の勃発直後。古巣、奉天(現在の瀋陽)は、その震源地。戦火の真っただ中に飛び込んだわけです。

 「どうせ、一年以内の命なら……」。各務原の病院を追い出されて以来、半ばやけ気味になっていた宗道臣は、これ幸いとばかり、危険な任務を求めては走り回っていました。そんなある日、陳良老師が宗道臣をつかまえて言ったといいます。

 「お前は、どうも死に急ぎしているように見えてならんが、一体どうしたのだ」

問われるままに、かの上等看護長の話をしたとたん、老師の一喝が飛びました。

「一年以内に死ぬとは誰が決めた。天命は人間などに計り知れるものでない。生きている間は死にはせん。人間は、天命が尽きるまで懸命に生きればよいのだ」

 この老師の一喝が、その後の宗道臣の「死生観」の根幹となったに違いないと、私は考えています。

 私はこれまで何度も、宗道臣その人から、「生きているうちは死にはせん。天命が尽きるまで懸命に生きろ!」「人間、死ぬまでは生きている。諦めるな!」と教え諭されてきましたが、最近、己の歳月を顧みるにつけ、その、我が老師・宗道臣の叱咤がひときわ強く胸に響いてならないのです。

鈴木義孝

1930(昭和5)年、兵庫県神戸市に生まれる。大谷大学文学部卒業、姫路獨協大学大学院修士課程修了。16年間の中学・高校教員生活を経て、69年より 81年まで、金剛禅総本山少林寺、社団法人日本少林寺拳法連盟、日本少林寺武道専門学校の各事務局長を歴任。金剛禅総本山少林寺元代表。現在、一般社団法 人SHORINJI KEMPO UNITY顧問。194期・大法師・大範士・九段。

鈴木義孝